【カナタ電話第5巻第4号】

キーワード:正しい綴り字,끼어들기 か 끼여들기か

Q:(第5巻第4号:1995年冬)「끼어들기를 하지 맙시다(割りこまないでください).」というとき、「끼어들기」と「끼여들기」のうち、どちらが正しいのですか?
A:結論から言いますと、「끼어들기」が正しいです。
 現行のハングル正書法では「ㅣ」母音同化現象は表記に反映しません。「되었다」や「하시오」を発音のとおりに「되였다」や「하시요」と表記すると間違いです。しかし、縮約語を作る縮約現象は表記に反映します。「하시어」や「쓰이어」は「하셔」「쓰여」と書いてもかまいません。同じ論理で、「끼다」に「어」が結合すると「끼어」となり、「끼이다」に「어」が結合すると「끼여」となります。
 韓国語では「끼다」と「끼이다」の両方が使われます。ただし意味が違います。「끼다」は意味が多様で、自動詞としては「(1)구름이 끼다(雲がかかる). 얼굴에 수심이 끼다(顔に悲しみが浮かぶ). (2)그늘이 끼다(かげになる). (3)구경꾼들 틈에 끼다(見物人たちに混じる).」のような文章が作れ、他動詞としては「(1)책을 겨드랑이에 끼다(本を脇にかかえる). (2)장갑을 끼다(手袋をはめる). (3)정치인을 끼고 일한다(政治家をバックに仕事をする). (4)전구를 끼다(電球をはめる).」のような文章が作れます。私たちが関心をもっているのは自動詞(3)の「끼다」と他動詞(4)で使われた「끼다」の被動形「끼이다」です。たくさんの物の間にあっても、それが能動的に起こったことであれば「끼다」を使い、被動的に起こったことであれば「끼이다」を使うのです。
 「끼어들다」は大部分、能動的な状況で使われます。特に、「끼어들기를 하지 맙시다.(割りこまないでください)」では「하지」から判断して能動的な状況だとわかります。このときは当然「끼다」が使われなければならず、「끼어들기」となります。これを「끼여들기」と書くと「ㅣ」母音同化現象を表記に反映するという間違いを犯したことになります。
 ところで、問題は辞書によっては「끼다」を「(1)끼이다の縮約語,(2)끼우다の縮約語」と記述することもあるという点です。これは「끼다」と「끼이다」です。そして、「끼다」と「끼우다」をすべて複数標準語として認定するという意味です。「외다」と「외우다」の関係を考えると、「끼다」が「끼우다」の縮約語だという記述は可能です。けれども「개다」に対して「개이다」を標準語と認定しないという現行標準語規定の傾向をみると、「끼다」に対して「끼이다」を複数標準語として認定しなければならないかどうかは疑問です。万一、「끼이다」が本来の語として標準語に認定されるならば「끼어들기」と「끼여들기」の両方が正しい表記です。標準語規定は、ある1つの規則が一律に適用されるというものでもありませんし、音声的環境が完全に同じということでもありませんが、よく似た類型である「데다」と「데이다」、「(목이)메다」と「메이다」などで前の言葉だけが標準語として認定されていることをみると、「끼이다」を複数標準語として認定するのは難しいと思います。
 さらに、古語辞典を見ると、「ㅅ기다」や「ㅄ기다」が「ㅅ기이다」や「ㅄ기이다」より数的にはるかに優勢であるだけでなく、時期的にも先行していますが、これは「ㅄ기(ㅅ기다)다>ㅄ기(ㅅ기다)이다」の順で単語が作られてきたことを示唆していると思われます。他の単語のように本来の語から縮約語ができたのではなく、「끼다」に対して、「끼이다」はむしろ発音の習慣として長くなった語だと思います。
 このような点から「끼이다」は標準語として認定するのが難しいので、「끼어들기」と書くのが正しいと思います。
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キーワード:分かち書き,씨は付けて書くか離して書くか

Q:(第5巻第4号:1995年冬)「씨」の分かち書きについて知りたいです。
A:ハングル正書法で人の名前の後ろに書く「씨」は分かち書きすることになっています。したがって、「전두환 씨, 노태우 씨」のように書かねばなりません。これは「씨」を代名詞的なものと見なしたためです。「씨」という言葉は独立して用いることはあまりありませんが、「씨는 우리 문단의 일인자이다(氏はわが文壇の第一人者だ).」のように独立的に使われることも可能です。この「씨」には「그 사람(その人)」程度の意味があります。したがって、「전두환 씨」は「전두환(노태우)という名前をもったある人」という表現で、「전두환」という語は「씨」を修飾してある限定された人を指示する役割を果たします。姓を付けずに名前の後に使う場合も同じです。「두환 씨」といえば、「두환という名前をもったある人」を示すものなので、「씨」は前の語と離して書かなければなりません。
 ところで、混同をきたすのは1音節の後ろです。通常、1音節同士の単語はひっつけて書こうとする傾向が強いです。そこで、「김씨」、「이씨」は大部分ひっつけて書きますが、これは厳密に考えると正しいというのは困難です。もちろん姓氏を示す意味で「김씨」、「이씨」と言うときは「씨」をひっつけて書かなければなりません。このときの「씨」は接尾辞的なものと見なければならないからです。
 しかし、ある特定の人を指すとき、例えば、「김 씨가 그랬어(キムさんがそう言った)」というような場合には分かち書きするのが正しい処理です。このときには、「김씨라는 성을 가진 어떤 사람(金氏という姓をもったある人)」を示すので、「전두환 씨」、「두환 씨」のときと同じく「씨」を代名詞としてみなければならないからです。
 整理すると、ある特定の人を指す場合の「씨」はすべて離して書かねばならず、姓氏自体をいうときだけひっつけて書くことができます。

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キーワード:正しい綴り字,쌍둥이か쌍동이か

Q:(第5巻第4号:1995年冬)「標準語規定」第8項によれば、「쌍둥이(ふたご)」」が標準語で「쌍동이」は非標準語ですが、同規定の第25項で、「쌍동밤(ふたつ入った栗)」を標準語と定めているのは矛盾していませんか。
A:そうではありません。「쌍둥이」は「쌍−둥이」と形態素分析され、[標準語規定]第8項はこのように接尾辞「−둥이」がついた語を標準語と認定するという条項です。ところで、「쌍동밤」は「쌍동−밤」と形態素分析され、したがって第8項の規定とは関係がありません。ですから、まったく矛盾とはならないのです。
 ところで、このような形態素分析とは別に、語源的にふたつとも「쌍동(雙童)」から来た語なので、その処理には一貫性がなければならないと主張することもできます。しかし、「쌍동」を分離して認識するといっても、「쌍동이・쌍동밤」や「쌍둥이・쌍둥밤」のように両方とも同じ語形にしなければならないと言うことはできません。なぜならば、標準語は単一語であれ、派生語であれ、複合語であれ、それぞれの語彙について、別々に査定をするのが原則だということができるからです。(もちろん、派生語の場合は接辞を査定することによって、自動的に、多数の語彙が標準語であるか否かを決めることができます。)
 このような「標準語規定」の精神はあちこちに見ることができます。例えば、第26項で「생/새앙/생강(しょうが)」の全部を標準語と定め、また同項で「생뿔/새앙뿔/생강뿔」の全部を標準語と定めていますので、一見、「생/새앙/생강」にしたがって機械的に定めたのではないかと考えることができます。しかし、第25項によれば、「새앙손이」は標準語ですが、「생강손이」は標準語ではありません。すなわち、単一語(생강)に関する標準語の査定とその単一語が結合した複合語(생강손이)の標準語の査定は別個になされるということがわかります。
 このようなことはいろいろ確認されています。「까치」と「다리」は両方とも標準語ですが、その複合語「까치-다리」は標準語ではないのです。また縮約語「괭이」と本来の語「고양이」は両方とも標準語ですが、複合語は「괭이갈매기,괭이눈,괭이밥」だけが標準語で「고양이갈매기,고양이눈,고양이밥」は標準語ではありません。このような語は実際には使われない語だからです。
 結論として、標準語はその現実的な使われ方などを考慮して単語それぞれについて査定することが原則であると言うことができます。「가위」は標準語で、「가새」は非標準語ですが、「가위표」が標準語であるか、「가새표」が標準語であるかは別途査定しなければならない問題だということです。ですから、「쌍둥」と「쌍동」という別の語形を含む「쌍둥이」と「쌍동밤」をそれぞれ標準語として定めたからといって,矛盾していることにならないのです。
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キーワード:正しい綴り字,흥보가か흥부가か

Q:(第5巻第4号:1995年冬)パンソリの名前は「흥보가」が正しいですか。「흥부가」が正しいですか。
A:「흥부가」が正しいです。「흥보가(興甫歌)」と「흥부가(興夫歌)」のように「흥보」と「흥부」は昔から混用されてきました。ところで、辞書によれば、近来は「흥부전, 흥부가, 흥부타령」など、「흥부」の語形がより優勢であるように思えます。朝鮮総督府の「朝鮮語辞典」(1920年)や문세영(文世榮)の「国語大辞典」(1954年)も「흥부타령(興富打令)」を表題語として載せており、「큰사전(大辞典)」(1957年)も「「흥부전(興夫傳)、흥부타령(興夫打令)」のみを載せていて、「흥보전、흥보타령」などの語形は載せていません。現行の国語辞典(民衆書林)も「흥보가」と「흥부가」をどちらも載せていますが、「흥부가」のほうに意味を書いています。そのほかでは「흥부、흥부전、흥부타령」をのせる反面、「흥보、흥보전、흥보타령」はのせていません。このような言語の現実を反映して、1994年9月14日国語審議会(ハングル分科会)は小学校、中学校、高等学校の国楽教育用語の統一案として「흥부가」を認定し、「흥보가」を認定しませんでした。この審議はすなわち標準語に関する審議として解釈されますので、「흥부가」が正しい語であると言えます。
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キーワード:日本語の残滓,뗑뗑이

Q:(第5巻第4号:1995年冬)服の물방물 무늬(水玉模様)を指すのに、ふつう、「뗑뗑이」と言いますが、日本語だと聞きました。本当にそうなのか知りたく、また、衣生活に関連した言葉の中で知らずに使っている日本語にはどんなものがあるのかも興味があります。
A:「뗑뗑이」は日本語からきた言葉です。日本語の「덴텐(点々、てんてん)」に接尾辞「이」がついた言葉です。模様を意味する「가라(柄)」という日本語をつけた「뗑뗑이 가라」というのもよく使われます。おっしゃったとおり、韓国語では「물방물 무늬」です。
 このほか、衣生活に関連して使う日本語は少なくありません。

「바지 끝을 가부라를 해야겠어(ズボンの裾をカブラにしなくちゃ).」
「너는 곤색 치마가 잘 어울려(君は紺色のスカートがよく似合うね).」
「이 스웨터는 시보리가 잘 되어 있어(このセーターはよく絞れてる).」
「올 여름에도 나시가 유행할 거예요(今年の夏も袖なしが流行するでしょう).」
「이 가다마이우라가 시원찮네(この片前は裏があまり良くないね).」
에리를 바로 해야지(襟をきちんとしなきゃ).」
「내 우와기 어디 있지(ぼくの上着どこにある)?」

 上の例は日常生活で相変わらず使われている日本語です。「가부라(鏑)」はズボンなどが長いとか、恰好をよくするために裾を短く折り返すことを指す言葉で、韓国語では「접단」または「밭접단」です。「밭-」は「밭사돈(娘の舅と嫁の父の間柄)、밭다리(相撲で外掛けをするときの相手の外側の足)」」のように外を意味する接頭辞です。「곤색」は「紺」の日本語式発音「コン」に「색(色)」がついた言葉です。韓国語では「감색, 검남색, 진남색」などと言うことができます。「시보리(絞)」はおしぼりを指すこともありますが、服の袖などを絞ったものを指すこともあります。韓国語では「(뜨개) 조르개」と言います。袖のない服を指す「나시」は、やはり、日本語の「소데나시(袖無)」が短くなった言葉です。韓国語では「맨팔옷, 민소매」を使うことができます。「가다마이(片前)」もやはり日本語で、洋服の上着の前の打ち合わせを浅くしてボタンを一列に付けたものを指します。最近ではふつう「싱글(single-breasted)」というのもよく使われます。韓国語では「홑자락, 홑여밈옷」と言うことができます。しかし、「가다마이」は一般的に、単にスーツを意味する言葉としてもよく使われるので、その場合は「양복」と言えばいいのです。「우라(裏)」は「안(감)」、「에리(襟)」は「깃」または「칼라」、「우와기(上衣)」は「(양복)저고리」や「상의」などを使うことができる日本語です。このほかにも「기지(生地)」(양복 기지, 기지 바지など)も日本語であり、「미싱」は英語の「machine」が日本語式の音に変わった言葉です。このような言葉はできるだけ使わないほうがいいです。
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キーワード:홑몸か홀몸か

Q:(第5巻第4号:1995年冬)妊娠した女性をいうとき、「홀몸」ではなく「홑몸」を使用した「홑몸이 아니다(ひとり身ではない)」のみが正しいそうですが、なぜ「홀몸이 아니다」と言ったら間違いなのか知りたいです。
A:国語辞典には「홀몸」について「配偶者や兄弟がない人」と、「홑몸」について「@よるべのないもの、A妊娠していないもの」と異なる説明がしてあります。
 これは「홀몸」と「홑몸」の「홀」と「홑」の意味の違いが原因です。歴史的にも「홀」と「홑」の意味は違います。「홀」は「ペアではなく1つだけ」という「独」の意味で、中世国語の「올」が起源です。(믌 玉陛예 뮈니 올 鶴이 외오 번 소리 니라 <杜詩諺解 24:38>)「올」から直接、現代国語の「홀」に発展したか、あるいは「호올」を経て「홀」に発展したものです。「홀로(ひとりで)」、「홀아비(やもめ)」、「홀어미(寡婦)」などの「홀」がすべてこれに該当します。
 一方、「홑」は「ペアをなしていないか、重なっていないもの」の意味であり,「겹」の反対となる「単」を意味します。これは中世国語や近代国語では「홋」や「혿」と表記されました。(서리 눈 우히 혿옷과 버슨 발로 반시 주그매 긔약더라 <東国新続三綱行実図 十4:24>, ), 니볼<同文類解 下:15>
 「홀」と「홑」の明確な差異は「単 단 独 독 <新増類合 下:44>」のように「홋/혿」と「홀」が同時に現れる中世国語の文献の存在によっても知ることができます。したがって、「妊娠していないもの」をいうときは「単」の意味をもっている「홑」を使用して「홑몸이 아니다」と言わなければなりません。
 「홀몸」と「홑몸」の混同は、「홑몸」の「홑」が国語の終声規則により「혿」となり、さらに、「혿」が後ろに来る「몸」の「ㅁ」のために「혼」と鼻音化したものであるのに、「홀몸」を元の形であると間違って把握したことに原因します。「홀」と「홑」の「独」と「単」という意味が類似していたこともこのような混同の大きな原因となったと思われます。
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キーワード:自己紹介,父の名前の紹介

Q:(第5巻第4号:1995年冬)他の人に自分の姓名や自分の父の名前を紹介するときはどのようにしなければならないのでしょうか?
A:知らない二人が会うことになる場合には、まず簡単な挨拶とともに自分の姓と名前を相手に言うことになっています。このときには「김 태권입니다. (キム[姓] テウォン[名前]です).」と言わなければなりません。何人かの前で紹介するときも同じです。相手が同年輩や年下の場合には状況に合わせて適切に語尾を変えて敬語法に合うようにすればいいです。そして自分の姓や本貫を相手に紹介する場合には「김 가[哥] (キム[姓] 家)」または「경주, 김가(哥)(慶州[本貫] キム[姓] 家)」と言わなければなりません。
 一方、他の人の名前について言うときには自分の名前を言うときとは違って、「이름(名前)」「성명(姓名)」などの言葉を使いません。このときには「함자가 어떻게 되십니까?(お名前はなんとおっしゃいますか)?」のように「함자(銜字)」という言葉を代わりに使わなければなりません。自分の父を紹介するときにも「저의 아버지(아버지의 함자)는 ○자 ○자이십니다.(私の父 (父の名前)は ○の字 ○の字です).」のように「함자」という語を使用しなければなりません。ここで特に留意すべき点は名前のそれぞれの字の後ろに「자(字)」をつけるということです。このように自分の父を紹介する場合はたいがい自分の紹介のあとで行われるので、姓についての言及は省略するのが普通です。
 ところで、名前とともに姓にも言及しようとする場合があることもあります。このような場合に、ふつう、「김자 ○자 ○자이십니다.」と言いますが、これは間違いです。「김 ○자 ○자이십니다.」のように姓の後ろに「자」をつけないのが正しいと言えます。
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キーワード:벌여 か 벌려 か

Q:(第5巻第4号:1995年冬))「책상 위에 책들을 쭉 벌여/벌려 놓고 무슨 공부를 하겠다는 것이냐(机のうえに本をズラッと広げておいて何の勉強をしようというのか)?」で「벌여」が正しいですか、それとも「벌려」が正しいですか?
A:このような文では「벌여」と「벌려」がしばしば混同されて使われていますが、この2つは意味が違う別の単語なので、区別して使わねばなりません。「벌여」と「벌려」の基本形はそれぞれ「벌이다」と「벌리다」とみることができます。
 「벌리다」には2つの同音異義語があります。「間を広げたり開く」を意味する「벌리다」と「お金が生じるようにする」を意味する「벌다」の被動形の「벌리다」がそれです。「다리를 벌리지 마라(足を開くな).」と「새로 시작한 일은 돈이 잘 벌린다(新しく始めた仕事はお金がよく儲かる).」がそれぞれの代表的な用例です。
 一方、「벌이다」は多義語なのでいくつかの意味に分類が可能ですが、大体、@「(仕事や店を)持つ」、A「(物を)広げる」という2種類にまとめることができます。「자기가 사업을 벌여 놓고 웬 딴전을 피우니(自分が事業を始めておいて、なぜするべきことをしないんだ)?」と「밤낮 화투짝만 벌여 놓고(夜も昼も花札の札ばかり広げている).」がその代表的な用例です。
 上に提示した文章は「벌이다A」の意味に該当するので、「벌려」ではなく「벌여」が正しいです。特に口語ではこのような文章の場合、「벌려」という間違った表現をより多く使うので、この点に格別に留意する必要があります。
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